佐渡おけさ歌詞
一番は皆んな歌えると思うけど
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慶長より元和(今から三百五、六十年前)にかけて相川金山が最も隆盛を極めた当時、相川町の人口は十余万人を数え、佐渡之国として広く全国に知られし由。その頃の盆踊りは各自国元の歌踊を取入れた為まとまったものはなかった。 江戸の文化が急激に入って来た寛文の末頃に至って今の相川音頭が始り、謡物としては心中口説恋物語等、主として軟体物ばかりであったといわれている。 文政、天保に至り、尚武の気風が盛になるや士族の本拠たる相川町では古来の軟体物を厭い、源平軍談五段が綴られて(作者相川の士人山田良範といわれる)、大いに謡いはやされてきたのである。 当時毎年七月十五日旧暦のお盆には奉行所前の広場に於て公式の行事として、この踊りを奉行の観覧に供した為一名御前踊ともいわれている。この御前踊りの時には必ず「謡曲内百番くずし」(作者佐渡奉行所広間役相川の歌人辻守遊といわれる)を謡うのが慣例であった由、この歌詞は謡曲の題名を詠み込んだもので非常な名作である。 この様に相川音頭は相川の金山によって生れ、その優雅な踊りと名歌詞とは郷土民謡の粋である。 |
さて扨もげんじ源氏の そ其のいきおい勢は(ハイ ハイ ハイ) かぜ風にうそぶ嘯く もうこ猛虎のごと如く(ハイ ハイ ハイ) くも雲をのぞ望める ひりゅう飛竜にひと等し(ハイ ハイ ハイ) てんま天魔きじん鬼神も おそ畏れをなして(ハイ ハイ ハイ) ※以下( )内はやし略 あお仰ぎうやま敬う たいしょうぐん大将軍は あかじにしき赤地錦の ひたたれ直垂をめし げ実にもびび美々し敷く い出でた立ちたも給う とき時にへいけ平家の たいしょうぐん大将軍は ぜい勢をあつ集めて かたりていわ曰く きょねん去年はりま播磨の むろやま宝山はじめ びしゅう備州みずしま水島 ひよどり鵯こ超の すど数度のかせん合戦に みかた味方にり利なし これ是はひとえ偏にげんじ源氏のくろう九郎 ちぼう知謀ぶりゃく武略の ゆみと弓取りゆ故ぞ なんぞ何卒くろう九郎を う討つべきてだて方便 あ有らまほ欲しやと のたま宣いければ とき時にかげきよ景清 ざ座をすす進みい出で よしやよしつね義経 おにがみ鬼神とても いのち命すてなば やす易かりなんと のと能登にさいご最後の いとま暇をつ告げて おか陸にあが揚れば げんじ源氏のぜい勢は のが遁すまじとて迚 おめいてかかる それをみ見るより あくしつ悪七ひょうえ兵衛 うで腕におぼ覚えの だいなぎなた大薙刀を ゆんで弓手めて馬手へと きらめ閃かしつつ きっ切りてか掛かれば たまりもあえず はむか歯向いたるむしゃ武者 しほう四方へパッと に逃げるてき敵を て手ど捕りにせんと す直ぐになぎなた薙刀 こわき小脇にはさ挟み わ我れはいささか へいけ平家のかた方に おに鬼とよ呼ばれし かげきよ景清なりと なの名乗りかけつつ なお猶お追いい行けり ここ爰にげんじ源氏の そのつわもの兵士に みおのや美尾野谷しろう四郎 ふ踏みとど留まりて なの名乗りかけつつ ふた二う打ちみ三う打ち しのぎ鎬けず削りて たたか戦いけるが いか如何になし為けん たちう太刀打ちお折りて ぜひ是非におよ及ばず に逃げんとせしを ひょうえ兵衛すかさず お追いか掛けながら やがてしろう四郎の かぶと甲のしころ しか而もにさんど二三度 て手はか掛けたれど つい遂にはずれて と取りと止められず さてもむねん無念の あくひち悪七ひょうえ兵衛 おも思うかたき敵を のが遁さじものと と飛んでかぶと甲の しころをつかみ あし足をふ踏みしめ エイヤとひ引けば いのちかぎ命限りと み美おのや尾野谷もひ引く ひ引いつひ引かれつ かぶと甲のしころ き切れてひょうえ兵衛が て手にとどまれば しろう四郎に逃げの延び また又た立ちかえ皈り さて扨もゆゆしき かいな腕のつよ強さ おと音にき聞こえし かげきよ景清どの殿と ほ褒めてた立ちたる しろう四郎をみ見やり ひょうえ兵衛おな同じく み美おのや尾野谷どの殿の くび頸のほね骨こそ つよ強かりけれと ドッとわろ笑うて た立つなみかぜ浪風の あら荒きおりふし折節 よしつね義経こう公は いかが如何しつらん ゆみと弓取りおと落し しか而もひきしお引潮 や箭よりもはや早く なみ浪にゆ揺られて はるか遙かにとお遠き ゆみ弓をかたき敵に わた渡さじものと こま駒をなみま浪間に う打ちい入れたま給いしが およ泳ぎおよ泳がせ てきせん敵船ちか近く なが流れよ寄るゆみ弓 と取らんとすれば てき敵はみ見るより ふね船こ漕ぎよ寄せて くまで鉄塔と取りのべ う打ちかくるにぞ すで已にあや危うく み見えたま給いしが すぐ直にくまで鉄塔をき切りはら払いつつ つい遂にゆみ弓をば おんて御手にとりて もと元のなぎさ渚に あがらせたも給う とき時にかねふさ兼房 ごぜん御前にいで出て さて扨もつたな拙き おんぶるまい御振舞や たとえ縦令ひぞう秘蔵の おんゆみ御弓にして ちじ千々のこがね黄金を の延べたりとても きみ君のいのち命が せんまんきん千万金に かえらりょうやと なみだ涙をなが流し もう申しあげ上れば いな否とよそれ夫は ゆみ弓をお惜しむと おも思うはおろ愚か も若しやかたき敵に ゆみ弓と取られなば すえ未のよ世までも よしつね義経こそは ふかくもの不覚者ぞと な名をけが汚さんは むねん無念しごく至極ぞ よしそれゆえ夫故に う討たれし死なんは うんめい運命なりと かた語りたま給えば かねふさ兼房はじ始め しょぐん諸軍ぜい勢みな よろい鎧のそで袖を しぼ絞るばかりに かんたん感歎しけり |
一、むかし異国の 名高き君も 色に溺れて 身のわざわいと なりしためしを さすがに今も 恋に命は 惜しまぬならい 二、ここに相川 二丁目へんに 名をば染屋の 仙次郎というて 色と情けを 目元にもたせ 交す言葉も ものやわらかに 三、まことわこくの 育ちを知らせ 古今万葉 伊勢物語 いずれ残らぬ そうでんからちゃ 歌やれんがも 名に大阪や 四、古き江戸茶に 京すすだけも およばざりける その風俗を 好いた男と みな人ごとに 思うおりふし さるかたさんの 五、 養子分とて その名はおさん 年も三十五の 振袖ざかり 月のさわりも 白歯の娘 結ぶまもなき そのしたひもも 六、 今はようよう 打ち解け顔の 梅の匂いを 桜にもたせ 柳姿の またやさがたに 髪は島田に その薩摩ぐし 七、 薩摩おのこの 気もわらぎて 贈る玉づさ かず大磯の 虎や少将の 昔を知りて 色をあらそい なまめく姿 八、 ちらと見染めし かの仙次郎 深き思いを すずりの海の 筆にまことを 書きあらわして 口説きかかれば おさんもついに 九、 誘う水には まかする心 浮かれ浮かるる 身は浮草の 流れよるべの たよりをおもい いつか逢瀬の ほどあれかしと 十、 思う折しも 仙次郎こそは ご縁日とて 金比羅様へ まいり逢いしも 不思議のえにし おさんさまかと 手を取りつつも 十一、 じっとしむれば 恥ずかし顔に 散らす紅葉は 竜田の川よ わしは妻恋う 牡鹿の角の つかの間さえも 忘れはせじと 十二、 云えば仙次郎 飛び断つ 思いそれはこなんの 口三味線に 乗する手紙か 本すががきか 引く手あまたの 金色盛り 十三、 どうもそこいが おぼつかないと 云えばせいもん 上駒かけて ばちもえますと 胸せきあぐる さてはうれしき 疑いはれた 十四、 語りたいこと 山々れど ここは人目の みる茶もあれば とかく今宵は ゆかりのかたを 宿とたのみて おなんど茶にて 十五、 忍び語らば 誰知らねずみ たがえまいぞや いざかならずと 言葉かわして 別れゆく |
ハァ 佐渡へ佐渡へと草木もなびく (ハァ シャン シャン) 佐渡はいよいか エーサァー 住みよいか 返し唄 佐渡はいよいか エーサァー 住みよいか (ハァ シャン シャン) ハァ 泣いてくれるな都が恋し (ハァ シャン シャン) 泣くな八幡の エーサァー ほととぎす 返し唄 泣くな八幡の エーサァー ほととぎす (ハァ シャン シャン) ハァ 佐渡の三崎の四所五所桜 (ハァ シャン シャン) 枝は越後に エーサァー 葉は能登に 返し唄 枝は越後に エーサァー 葉は能登に (ハァ シャン シャン) ハァ 花にさそわれひばりにゃよばれ (ハァ シャン シャン) 今日も出て行く エーサァー 春の山 返し唄 今日も出て行く エーサァー 春の山 (ハァ シャン シャン) ハァ 花かちょうちょかちょうちょか花か (ハァ シャン シャン) 来てはちらほら エーサァー まよわせる 返し唄 来てはちらほら エーサァー まよわせる (ハァ シャン シャン) |
資料提供:若波会
御協力 :フッチマン