佐渡おけさ歌詞

一番は皆んな歌えると思うけど

ハアー佐渡へ佐渡へと草木もなびく
ハアーかすむ相川夕日に染めてナァヨ
ハアー真野のみささぎ松風さえて
ハアー佐渡へ八里のさざ波超えて
ハアー花やかすみに引き止められて
ハアー鳴いてくれるな都が恋し
ハアー梅の匂いを桜にこめて
ハアー洗い波さえやさしく受けて
ハアー咲いた花なら散らねばならぬ
ハアー仇し仇波よせては返す
ハアー島の乙女の黒髪恋し
ハアー雪の新潟吹雪に暮れて
ハアー嫁も姑も手を打ち鳴らし
ハアーおけさ踊りについうかうかと
ハアー北は大佐渡南は小佐渡
ハアー波に浮島浮名は立てど
ハアー佐渡の岬の四所(ししょ)御所桜 
佐渡は居よいか住みよいか
波の綾織る春日崎
そこで涙の村しぐれ
鐘がきこゆる寺泊
かえりともない春の雁
泣くな八幡(やわた)のホトトギス
しだれ柳に咲かせたい
心動かぬ佐渡ヶ島
恨むまいぞえ小夜嵐(さよあらし)
寄せて返して又寄せる
又も行きたい花の佐渡
佐渡は寝たかよ灯が見えぬ
五十三里を輪に踊る
月も踊るよ佐渡の夏
(あい)の国中(くになか)米どころ
恋に沈んだ乙羽池(おとわいけ)
枝は越後に葉は佐渡に

おけさそめき(ハァ〜の代わりに最初の3文字を唄う)
知らぬー知らぬ他国の二階のぞめきヨ
霞むー霞む相川夕日に染めて
佐渡のー佐渡の相川 羽田の浜に
真野のー真野の御陵(みささぎ)松風冴えて
北はー北は大佐渡南は小佐渡
度胸ー度胸定めて乗り出すからは
来いとー来いと言うたとて行かりょか佐渡へ
おけさーおけさ踊りについうかうかと
啼いてー啼いてくれるな都が恋し
花にー花に誘われ雲雀にゃ呼ばれ
佐渡へー佐渡へ八里のさざ波越えて
嫁もー嫁も姑も手をうち鳴らし 
島のー島の乙女の黒髪恋し 
波のー波の上でもござるならござれ 
おけさーおけさ連中と名を立てられて 
佐渡のー佐渡のおけさかおけさの佐渡か 
沖のー沖の漁り火涼しく更けて 
小木はー小木は間で持つ相川山で 
夏のー夏の相川夕焼け雲に 
二見ー二見夕焼け三崎は霞む 
沖のー沖の鴎に潮時聞けば 
佐渡のー佐渡の土産は数々あれど 
月はー月は傾く東は白む 
濡れてー濡れて色増す若葉の紅葉 
吹けよー吹けよ川風上がれよすだれ 
あなたーあなた百までわしゃ九十九まで 
佐渡へー佐渡へ来てみよ夏冬なしに 
咲いたー咲いた桜になぜ駒繋ぐ 
雪のー雪の新潟吹雪に暮れて 
佐渡でー佐渡で唄えば越後ではやす 
遠いー遠い漁り火夜に啼く鴎 
佐渡とー佐渡と柏崎ゃ竿差しゃ届くよ 
海じゃー海じゃ漁する鉱山じゃあてる 
聞けばなつかし佐渡おけさ
波の綾織る春日崎
女波男波が打ち寄せる
袖に涙の村時雨
間(あい)の国仲米どころ
後へ返さぬ帆かけ船
佐渡は四十九里波の上
月も踊るよ佐渡の夏
啼くな八幡のほととぎす
今日も出て行く春の山
鐘が聞こゆる寺泊
五十三里を輪に踊る
またも行きたや花の佐渡
船にゃ櫓もある櫂もある
おけさやめても名は残る
渡る船さえおけさ丸
夢を見るよな佐渡ケ島
夷(えびす)港は漁で持つ
金波銀波の春日崎
真野の入り江に立つ鴎
わたしゃ立つ鳥波に聞け
おけさばかりは荷にゃならぬ
おけさ連中はちらほらと
末にゃ浮名の立田川
中の小唄の主見たや
共に白髪の生えるまで
山にゃ黄金の花が咲く
駒が勇めば花が散る
佐渡は寝たかよ灯が見えぬ
踊る鴎は波の上
佐渡は静かに更けていく
何故に届かぬ我が思い
佐渡は住みよい暮らしよい

選鉱場おけさ
ハアー朝もナー早よからカンテラ下げてナーヨ
ハアー花が蝶々か蝶々が花か 
ハアー押せや押せ押せ船頭衆もかこも
ハアーよしゃれはなしゃれしころが切れる
ハアー咲いた花なら散らねばならぬ
ハアー来いちゃ来いちゃで二度だまされた
ハアー花も実もない枯木の枝に
ハアー佐渡の海府は夏よいところ
ハアー佐渡の二見の二股見やれ
ハアー梅の匂いも桜にこめて
ハアー泣いてくれるな出船の時は
ハアー佐渡の金山この世の地獄
ハアー鶴が舞います鶴子(つるし)の山に 
高任(たかとう)通いの程のよさ
来てはチラホラ迷わせる
押せば港が近くなる
しころ切れてもわしゃ切れぬ
恨むまいぞえ小夜嵐
またも来いちゃでだますのか
止まる鳥こそ真の鳥
冬は四海の波が立つ
伊勢も及ばぬこの景色
しだれ柳に咲かせたい
綱も碇も手につかぬ
登る梯子が針の山
お山繁昌と舞い遊ぶ



相川音頭歌詞

相川音頭といっても相川に関係ない源平合戦を唄ったものです
源義経が弓を海に落とし慌てて拾い上げるという内容です
義経は腕力が弱く、敵の平家に拾われてそれがバレるのが嫌だったようです

相川音頭の起源
 慶長より元和(今から三百五、六十年前)にかけて相川金山が最も隆盛を極めた当時、相川町の人口は十余万人を数え、佐渡之国として広く全国に知られし由。その頃の盆踊りは各自国元の歌踊を取入れた為まとまったものはなかった。
 江戸の文化が急激に入って来た寛文の末頃に至って今の相川音頭が始り、謡物としては心中口説恋物語等、主として軟体物ばかりであったといわれている。
 文政、天保に至り、尚武の気風が盛になるや士族の本拠たる相川町では古来の軟体物を厭い、源平軍談五段が綴られて(作者相川の士人山田良範といわれる)、大いに謡いはやされてきたのである。
 当時毎年七月十五日旧暦のお盆には奉行所前の広場に於て公式の行事として、この踊りを奉行の観覧に供した為一名御前踊ともいわれている。この御前踊りの時には必ず「謡曲内百番くずし」(作者佐渡奉行所広間役相川の歌人辻守遊といわれる)を謡うのが慣例であった由、この歌詞は謡曲の題名を詠み込んだもので非常な名作である。
 この様に相川音頭は相川の金山によって生れ、その優雅な踊りと名歌詞とは郷土民謡の粋である。

相川音頭
― 源平軍談「義経弓流し」の段 ―
さてもげんじ源氏の そのいきおい(ハイ ハイ ハイ)
かぜにうそぶく もうこ猛虎のごと(ハイ ハイ ハイ)
くもをのぞめる ひりゅう飛竜にひと(ハイ ハイ ハイ)
てんま天魔きじん鬼神も おそれをなして(ハイ ハイ ハイ)
 ※以下(   )内はやし略

あおぎうやまう たいしょうぐん大将軍
あかじにしき
赤地錦の ひたたれ直垂をめし
にもびび美々く いでたちたも
とき
にへいけ平家の たいしょうぐん大将軍

ぜい
をあつめて かたりていわ
きょねん
去年はりま播磨の むろやま宝山はじめ
びしゅう
備州みずしま水島 ひよどり
すど
数度のかせん合戦に みかた味方にりなし

これ
はひとえにげんじ源氏のくろう九郎
ちぼう
知謀ぶりゃく武略の ゆみと弓取りゆ
なんぞ
何卒くろう九郎を うつべきてだて方便
らまほしやと のたまいければ

とき
にかげきよ景清 ざをすすみい
よしやよしつね
義経 おにがみ鬼神とても
いのち
すてなば やすかりなんと
のと
能登にさいご最後の いとまをつげて

おか
にあがれば げんじ源氏のぜい
のが
すまじとて おめいてかかる
それをみ
るより あくしつ悪七ひょうえ兵衛
うで
におぼえの だいなぎなた大薙刀

ゆんで
弓手めて馬手へと きらめかしつつ
きっ
りてかかれば たまりもあえず
はむか
歯向いたるむしゃ武者 しほう四方へパッと
げるてきを てりにせんと

ぐになぎなた薙刀 こわき小脇にはさ
れはいささか へいけ平家のかた
おに
とよばれし かげきよ景清なりと
なの
名乗りかけつつ なおいいけり

ここ
にげんじ源氏の そのつわもの兵士
みおのや
美尾野谷しろう四郎 ふみとどまりて
なの
名乗りかけつつ ふたちみ
しのぎ
けずりて たたかいけるが

いか
如何になしけん たちう太刀打ちおりて
ぜひ
是非におよばず にげんとせしを
ひょうえ
兵衛すかさず おいかけながら
やがてしろう
四郎の かぶとのしころ

しか
もにさんど二三度 てはかけたれど
つい
にはずれて とりとめられず
さてもむねん
無念の あくひち悪七ひょうえ兵衛
おも
うかたきを のがさじものと

んでかぶとの しころをつかみ
あし
をふみしめ エイヤとひけば
いのちかぎ
命限りと みおのや尾野谷もひ
いつひかれつ かぶとのしころ

れてひょうえ兵衛が てにとどまれば
しろう
四郎げのび またちかえ
さて
もゆゆしき かいなのつよ
おと
にきこえし かげきよ景清どの殿

めてたちたる しろう四郎をみやり
ひょうえ
兵衛おなじく みおのや尾野谷どの殿
くび
のほねこそ つよかりけれと

ドッとわろ
うて たつなみかぜ浪風
あら
きおりふし折節 よしつね義経こう
いかが
如何しつらん ゆみと弓取りおと
しか
もひきしお引潮 やよりもはや

なみ
にゆられて はるかかにとお
ゆみ
をかたきに わたさじものと
こま
をなみま浪間に うちいれたまいしが
およ
ぎおよがせ てきせん敵船ちか

なが
れよるゆみ とらんとすれば
てき
はみるより ふねぎよせて
くまで
鉄塔りのべ うちかくるにぞ
すで
にあやうく みえたまいしが

すぐ
にくまで鉄塔をきりはらいつつ
つい
にゆみをば おんて御手にとりて
もと
のなぎさに あがらせたも
とき
にかねふさ兼房 ごぜん御前にいで

さて
もつたなき おんぶるまい御振舞
たとえ
縦令ひぞう秘蔵の おんゆみ御弓にして
ちじ
千々のこがね黄金を のべたりとても
きみ
のいのちが せんまんきん千万金

かえらりょうやと なみだ
をなが
もう
しあげれば いなとよそれ
ゆみ
をおしむと おもうはおろ
しやかたきに ゆみられなば

すえ
のよまでも よしつね義経こそは
ふかくもの
不覚者ぞと なをけがさんは
むねん
無念しごく至極ぞ よしそれゆえ夫故
たれしなんは うんめい運命なりと

かた
りたまえば かねふさ兼房はじ
しょぐん
諸軍ぜいみな よろいのそで
しぼ
るばかりに かんたん感歎しけり

相川音頭の“古調”(心中もの?)(源平軍談以前の歌詞)
資料提供:戸地、この唄を普及する会

初   段
一、むかし異国の 名高き君も 色に溺れて 身のわざわいと
なりしためしを さすがに今も 恋に命は 惜しまぬならい

二、ここに相川 二丁目へんに 名をば染屋の 仙次郎というて
色と情けを 目元にもたせ 交す言葉も ものやわらかに

三、まことわこくの 育ちを知らせ 古今万葉 伊勢物語
いずれ残らぬ そうでんからちゃ 歌やれんがも 名に大阪や

四、古き江戸茶に 京すすだけも およばざりける その風俗を
好いた男と みな人ごとに 思うおりふし さるかたさんの

五、 養子分とて その名はおさん 年も三十五の 振袖ざかり
月のさわりも 白歯の娘 結ぶまもなき そのしたひもも

六、 今はようよう 打ち解け顔の 梅の匂いを 桜にもたせ
柳姿の またやさがたに 髪は島田に その薩摩ぐし

七、 薩摩おのこの 気もわらぎて 贈る玉づさ かず大磯の
虎や少将の 昔を知りて 色をあらそい なまめく姿

八、 ちらと見染めし かの仙次郎 深き思いを すずりの海の
筆にまことを 書きあらわして 口説きかかれば おさんもついに

九、 誘う水には まかする心 浮かれ浮かるる 身は浮草の
流れよるべの たよりをおもい いつか逢瀬の ほどあれかしと

十、 思う折しも 仙次郎こそは ご縁日とて 金比羅様へ
まいり逢いしも 不思議のえにし おさんさまかと 手を取りつつも

十一、 じっとしむれば 恥ずかし顔に 散らす紅葉は 竜田の川よ
わしは妻恋う 牡鹿の角の つかの間さえも 忘れはせじと

十二、 云えば仙次郎 飛び断つ 思いそれはこなんの 口三味線に
乗する手紙か 本すががきか 引く手あまたの 金色盛り

十三、 どうもそこいが おぼつかないと 云えばせいもん 上駒かけて
ばちもえますと 胸せきあぐる さてはうれしき 疑いはれた

十四、 語りたいこと 山々れど ここは人目の みる茶もあれば
とかく今宵は ゆかりのかたを 宿とたのみて おなんど茶にて

十五、 忍び語らば 誰知らねずみ たがえまいぞや いざかならずと
言葉かわして 別れゆく



相川甚句歌詞

ハァ 佐渡へ佐渡へと草木もなびく (ハァ シャン シャン)
佐渡はいよいか エーサァー 住みよいか
 返し唄 佐渡はいよいか エーサァー 住みよいか (ハァ シャン シャン)

ハァ 泣いてくれるな都が恋し (ハァ シャン シャン)
泣くな八幡の エーサァー ほととぎす
 返し唄 泣くな八幡の エーサァー ほととぎす (ハァ シャン シャン)

ハァ 佐渡の三崎の四所五所桜 (ハァ シャン シャン)
枝は越後に エーサァー 葉は能登に
 返し唄 枝は越後に エーサァー 葉は能登に (ハァ シャン シャン)

ハァ 花にさそわれひばりにゃよばれ (ハァ シャン シャン)
今日も出て行く エーサァー 春の山
 返し唄 今日も出て行く エーサァー 春の山 (ハァ シャン シャン)

ハァ 花かちょうちょかちょうちょか花か (ハァ シャン シャン)
来てはちらほら エーサァー まよわせる
 返し唄 来てはちらほら エーサァー まよわせる (ハァ シャン シャン)

資料提供:若波会
御協力 :フッチマン


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