妙宣寺

☆完成までに30年を要した五重塔のある寺
  佐渡に流された順徳上皇の供をした遠藤為盛夫妻の子盛綱が、
父母の志を継ぎ開基したのが真野の妙宣寺。
この寺は、五重塔が有名。
日光東照宮の塔を模した高さ24mの県内唯一の塔で、県重要指定文化財。
境内にはそのほか、日野資朝(すけとも)の墓所がある。
また、日蓮上人の筆書状や曼陀羅、日野資朝の細字法華経といったものがある。
境内拝観、駐車場とも無料です(竹林も歩けます)

佐渡 妙宣寺
日光の五重塔を模したと言われています

§ 新潟県唯一の五重塔
  ☆阿仏房妙宣寺(真野)に、五重塔が立っています。純和風のこの建物は一辺が3.5メートル、高さは24.11メートルあります。柱は杉、上物は松、組物は欅が多く。屋根は明治年間に柿(こけら)葺きから銅板葺きに改められ、昭和14年に棧瓦葺きに改造されましたが、それ以後は最初の材、形が残っていて、諸説がありますが文政10年(1827)に全体の形が整ったようです。「浮世噺」という書物に「文政十亥年、阿仏にて五重塔建立。棟梁大工、相川長坂町、茂三兵衛」とあるのが正確で、日光の東照宮より10年遅れて完成しました。均整のとれた美しい建築で、彫刻など地方色豊かです。ほかに建築例の見当たらない人ですが、長坂町に「茂三兵衛」という大工が住んでいたことは、文政年間の相川の屋敷絵図帳のも出ており、日蓮宗の妙輪寺(いまは法輪寺に合併)の同家の墓碑には「茂三兵衛」と刻んで残っています。ただし羽茂町に残る伝承では、同町寺田の産の「金蔵」という大工が婿養子に入り、茂三兵衛と組んで親子二代かけて完成したと伝えられています。金蔵には羽茂に建築例が多くあります。
  最近管見した妙宣寺文書(本間裕亨氏の教示による)によると「開山堂」(開山は日蓮聖人在島時の日得上人)再建の名目で立塔の願いが出されたのが享保21年(1736)だったことがわかりました。二十五世の住職、日機の時代で、頂上の相輪がのる「伏鉢」(金属製)ができ上がったのは元文5年(1740)でした。近年の撮影では80人ほどの寄付者の名前が伏鉢に彫りつけてあって、「津軽屋治兵衛」「伊勢屋清助」など、以外にも大阪住まいの人たちで、鋳造も大阪人であって「鋳工 大阪住 長谷川久左衛門」の名が読み取れます。完成の年まで92年もかかったのは、主として資金難のためであったと思われます。
  さて、立塔した翌文政11年(1827)になって「最初は重ね棟とあった。五重塔は約束違反である」と佐渡奉行所からきついおとがめがあった(妙宣寺文書)」。これに対し寺では「仏家では堂塔は格別異形とはいえず、二間四方の開山堂と申し上げて願い出てあり、お聞き済みと思っていた」と回答した。贅沢禁止令に該当したらしく、そうした理由のほかに、当時の在職日体上人は、落慶の法要の際に日蓮宗根本寺などから訴えられ、相川の末寺に所払いになっている。地元竹田村では「八丈島に遠島になった」と伝えられていたとされます。日体は相川の寺に仮寓し、天保2年(1831)の7月に没した。67歳。

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