東京相川会歴史
 「東京相川会」の歴史は、昭和27年(1952年)10月、佐渡鉱山の経営母体である、三菱本社から役員のほかに、当時の升越鉱山長が相川に見え、事実上鉱山を縮小する旨を相川町に予告しにきたことに由来するのである。
それまで、この町の経済は殆ど鉱山に依存してきたため、行政側も急遽協議し、相川町の代表として、この町の出身者で外務大臣などを歴任したことのある、有田八郎氏に依頼し、三菱側との折衝にあたってもらった。 この間、故郷「相川町」の存亡の危機をともに憂い、連日連夜打開策に打ちこんできた東京在住の相川町出身者の有志がいた。ここから誕生したのが、そもそもの「東京相川会」なのであります。
三菱との根気強い折衝が行われたが、第二次世界大戦中の乱掘によって良質の鉱石が減少していったことと、「金」の世界相場が下落したことにより、止む無くに到ったのである。遠く平安朝時代に始まったといわれる佐渡金山の歴史もかいびゃく開闢以来の未曾有の危機に瀕し、従業員の約九割に当る556名を整理し、残りの49名で採掘を続けるというものであった。
 徳川の初期から延々と四百年近くを金山に賭けて来たこの町の死活問題に繋がっていた。
この三菱の方針を、町では「営利主義」として反対し、町の有力者たちをリーダーに、町民こぞって反対運動に乗り出した。
 結果は、「鉱山の縮小については止むを得ない」としても、町の希望として、「鉱山の山林全部と、発電所の贈与」を申し入れてもらったが、三菱側は事後の鉱山再建のことも考慮して、この件は断わられたのである。
しかしながら、有田八郎氏の努力と三菱側の誠意によって、今後相川町が立ち直り、方向転換して行くための、相当額の金員と、物件の贈与を受けることが出来たのである。
 この佐渡鉱山の大縮小によって町の有力者の多くが、日夜寝食を忘れて、町に有利な解決を図るため、三菱側と折衝に当ったお蔭で、貴重な成果を上げたことも忘れてはならない史実である。
「栄枯盛衰」世の習いで、徳川参百年の財源を維持し、日本最大といわれたこの金山も、やがては凋落の一途を辿ったのである。
 佐渡金山から整理された人々は、その後同列系統の「尾去沢」「細倉」「生野」「明延」などの鉱山へ配属され、その子供達も親に連れられて住み慣れた町を離れていったのであるが、今となっては懐かしい心の故郷でありましょう。
 この「東京相川会」は、毎年「両国公会堂」に300人に近い人々が年に一回集まり「相川ことば」で交流を楽しみ、相川出身者の唯一の憩いの場でもありました。
 その後、相川町も町村合併が行われ、それに伴う旧来の「東京相川会」の陣容も内容もすこしずつ変わってきたのである。
 今日では相川町出身者の在京者も2万名を超えておるようにも聞き及んでいます。
絶海の孤島、佐渡に生まれ、その長い歴史の中で育まれた多くの方々が、島内はもちろん、全国各地、さらに海外にも雄飛して、政治、経済、文化などの各分野で目覚しいご活躍をし、社会の進展に多大な貢献をしております。

                 本間壮平氏の「東京相川会50周年にあたり」より拝借
資料提供:相川会々員 藤下様

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